H I S T O R Y

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ZZ TOPの誕生
 1969年、テキサス州ヒューストンで活動していた"The Moving Sidewalks"のビリー・ギボンズは、新バンドのオーディションを繰り返していました。
 ある日そこへ、同州ダラスでは少し名をあげた"The American Blues"のドラマー、フランク・ベアードが参加します。フランクはオーディションにみごと合格し、次に彼は、元バンドメンバーのダスティ・ヒルをベーシストとして薦めました。
 こうして揃った3人は、初セッションでCのブルースを合わせてみたところ、それが延々2時間以上も続き、その音楽性と人間性、そしてジョークセンスに多くの共通点を見出したのです。
 後に、「この時、ただならぬものを感じた」と語られたこのセッションにより "Z.Z.Top" は誕生し、30年以上経った今でも、メンバーチェンジすることもなく活動を続けているのです。

 バンド誕生以前から ZZ Topに深く関わり、ZZ Topを知るにおいて忘れてはならない、もう1人の人物が、プロデューサーの Bill Ham でしょう。
 彼は4人目のZZ Topとも呼ばれ、ファースト・アルバムから1997年リリースの「Rhythmeen」まで全てのアルバムのプロデューサーであり、初期には作曲者としてもクレジットされています。
 そんな彼は、「バンドを売り込むためには、地道なライブ活動がベスト」と考え、地元テキサスを中心とした連日連夜のクラブサーキットを決行しました。また、Alice Cooper や Janis Joplin, Sly & The Family Stone など大物バンドの前座にも精力的にアピールしていきました。

テキサスからアメリカン・バンドへ
 彼らが広く注目され始めたのは、3枚目のアルバム「Tres Hombres」(1973)です。
 収録曲 "La Grange" が全米41位のスマッシュヒットとなり、初のプラチナアルバム(最高8位)になったのです。ちょうどその頃 The Rolling Stones の前座を務め、そのハードブギーが多くのロックファンの目に止まったことも、ひとつの要因のようです。
 同アルバムは、今でもライブの定番となっている "Waitin' for the Bus", "Jesus, Just Left Chicago" を収録。また、後にビリーはこれを「一番好きなアルバム」と語るなど、「Tres Hombres」は、これからのバンドの方向性をも決めた重要なアルバムとなりました。

 勢いに乗るZZ Topは、次作「Fandango!」(1975)で、初期の彼らを代表する曲 "Tush" を初のTOP20にチャートインさせ、 ツアーでは、テキサス大学記念スタジアムにおいて80000人という観客を動員。他にもロサンゼルス、アトランタ、ニューオリンズ等々で数万人規模のスタジアムを次々とソールドアウトにし、Led Zeppelin や The Rolling Stones のもつ記録を次々と破っていったのでした。

 伝説ともなっているこの「ワールドワイド・テキサス・ツアー」は、テキサス州をかたどったステージに、本物のバッファローやコヨーテ、ガラガラ蛇などが登場したことでも有名で、動物たちも乗せたツアートラックは総重量75トンにもなるものでした。

ヒゲの理由
 次作「Tejas」(1976)(「テハス」スペイン語でテキサスの意味)で "It's Only Love" を当然のようにチャートに送り込んだ後、バンドはしばらく休暇をとります。当時の音楽シーンがディスコ・ダンスブームだったのに対し、彼らは「自分たちの居場所がない」と考え、また、1年に300日以上もツアーに出ていたことがその理由にあるようです。

 3人は2年以上もの間、自由気ままに世界各国の好きな場所で暮らし、お互い会うことは無かったものの、デモテープを送り合うなど、常に連絡はとっていました。また、この間にビリーとダスティーのヒゲは のび放題にのび、その後のビジュアル面に大きく影響する重要な休暇ともなりました。

MTV時代突入
 休養からの復帰を前に、レーベルをロンドン・レコードからワーナー・ブラザースに移籍。1979年には復帰第一作目の「Deguello」を発表。このあたりから当時の先端技術「シンセサイザー」を取り入れるようになりました。

 そして、1983年にリリースされた「Eliminator」では、更に大胆にシンセを導入。昔ながらのスタイルを保持しつつも全く新しいZZ Topのブギーを創り上げたのです。
 同アルバム収録の "Gimme All Your Lovin", "Sharp Dressed Man", "Legs" は当たり前のように世界的ミリオンセラーになり、「Eliminator」はZZ Topのベストセラーアルバムになったのです。(全米最高9位、全世界850万枚のセールスを記録)

 サングラスに長いヒゲ、同じ格好、同じ楽器というあのスタイルを作り出したのもこの時期で、当時誕生した人気番組MTVでそのビジュアル面を売り出し、見事、時代に受け入れられます。 連続ドラマ仕立てになったビデオクリップには、毎回、ホットロッド「エリミネーター」と、大勢の美女が登場することで話題になり、しかも「まわるギター」で笑いまでとっていました。
 続く「Afterburner」(1985)でもその勢いは止まらず、このツアーで念願の初来日を果たし、日本でも一気にファンが増えたのでした。

NASAとタイムマシン
 その後、90年に入るまでオリジナル・アルバムはリリースしなかったものの、その数年間には、昔と変わらぬどころか、今度は世界規模でツアーをする日々が続きました。

 そんな多忙な中にも遊び心を忘れない彼らは、「スペースシャトルのラウンジバンドになりたい」 と、NASAに申し出て、それが正式に受理されたり、 無類のクルマ好きであるビリーは、49年式のキャデラックを改造したホットロッド「CadZZilla」を完成させ、世界中のカーマニアをうならせたり、 マディーウォーターズの生家が取り壊される際に貰った板で作ったギター「マディーウッド」をデルタブルース博物館に寄贈するなど、話題には事欠かないバンドでした。

 1990年には「Recycler」を発表。収録曲 "Doubleback" は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」のテーマ曲となり、自身らも同映画に西部のバンドマンとして出演しました。

3コードで30年
 次作「Antenna」(1994)からはレーベルを RCA に移籍。楽曲には今まで多用されていたシンセサイザーの音が明らかに少なくなり、彼らのルーツであるブルース色が強く現われるようになりました。 続く「Rhythmeen」(1996)、「XXX」(1999)でも、そのスタイルが継承されています。
 また、「Rhythmeen」レコーディング前に、南アフリカに旅行したビリーは、そこで強い刺激を受け、それがサウンド面にも影響し始めました。大陸を感じさせるリズムやサウンド、さらにファッションまでもが取り入れられたのです。

 彼らが、日本で再び注目されたのは、1998年に放映されたホンダZのCMでした。ここで彼らは昔と変わらずギターを回し、「Zだぜっ!」と叫ぶパフォーマンスを見せたのです。そして1999年8月には突然の再来日を果たし、フジロックフェスティバルで往年のファンを喜ばせたのでした。

 大御所と呼ばれるようになってしまった現在でも、世界規模のツアーや、カーショウでの来日など、その活動に淀みはありません。
 結成から30年以上もの間、ブルースとテキサスを愛し続けるZZ TOP。彼らは、これからもアメリカン・ロックトリオとして活躍し続けるでしょう。



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